最も信頼する人、愛する人をあまりにも身近にいるがゆえに誤解していることはある。
思いを言葉に乗せるとはどういう意味なのか?を問う。
コーダ あいのうた』や『クライ・マッチョ』にも同じメッセージが込められている。
伝えたくても言葉を持たないこともある。いずれにしても「生きるとは演じることだ。」演じ切ることだ。そして思った台詞(せりふ)をそのまま口にすることが正しいとも限らない。
昨年のカンヌ映画祭に続き米国で数々の批評家賞を受賞、3月に決まる米アカデミー賞でも有力候補という。濱口竜介監督「ドライブ・マイ・カー」を遅ればせながら映画館で見た。劇中劇の形で主人公の心情を代弁する舞台「ワーニャ伯父さん」の台詞(せりふ)が心にしみた。

2


▼「泡と消えた人生!」「ああ、気が狂いそうだ……」「母さん、ぼくはもうダメです」。チェーホフの名戯曲には、人生を棒に振った中年男の悔恨と絶望の嘆きがあふれている。ヤケを起こして正気をなくし、ついには拳銃を振り回す――。いつしかその姿はスクリーンを抜け出し、現代の光景と二重写しになって見えた。

▼「人生を終わらせてほしい」「死刑にしてくれ」。昨年来、いくたび同様の叫びを聞いたことか。無関係な人々を巻き込んで、自分のみならず他人の人生をも終わらせようとするおぞましい犯罪。許せない、とただ憤っても「拡大自殺」と今風の言葉でくくってみても、彼らが抱える闇を理解したことにはならないだろう。

▼せめて絶望という病に寄り添う言葉はないものか。ワーニャには心優しい姪(めい)が語りかける。「生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう」(浦雅春訳)。映画の主人公には悲しみを潜(くぐ)った人との交感がある。もちろん人生は映画のようにいくまい。それでも、と寒空の下ドラマの余韻に身を沈めた。

2022年1月24日 日経春秋
これは「82歳男性殺害疑い、24歳女逮捕 東京・池袋」の事件などを言っているのだろう。
拡大自殺については「東大前、受験生ら3人刺傷 無差別襲撃のリスク浮き彫り」と関連しているようだ。
3

『ドライブ・マイ・カー』については、作家の古川日出男氏が去年のレビューで以下のような紹介をされている。作家ならではのレビューである。
すでにカンヌ映画祭での脚本賞受賞などで話題となっている本作は、村上春樹の同名短編が原作で、ほかの短編の要素も入っている。つまり「磨かれた小説の言葉」を、濱口竜介監督らが映画シナリオの言葉に換えて、俳優たちに口にさせたものだとも言える。じつは、ここにこそ、この傑作映画の主題は隠されている。

簡単に言えば「言葉を口にするとは何か」「演じるとは何か」だ。

主人公は舞台の俳優・演出家の家福で、家福には愛する妻がおり、妻もまた家福を熱愛している。にもかかわらず、他の男たちとの肉体関係を重ねる。それがなぜであったのかが映画を展開させる核心="謎"となる。が、私たちは「夫を熱烈に愛する女性は、他の男とは寝ない」という妻のイメージは、一つの役柄なのだとも気づかされる。

生きるとは、そういう役柄(夫・妻・娘)を演じることではないのか……と。

家福の妻は急死して、彼は"謎"を抱えたまま広島で催される国際演劇祭に招かれる。現地でリハーサルを重ねながら舞台を制作し、それを本番で上演することになったのだ。演劇祭側は家福に、稽古場と住居を往復するための車の専属ドライバーを用意する。みさきという女性で、非常に寡黙だ。彼女には幼い頃から「母親に対して『よい娘』を演じなければならなかった」過去がある。が、それは容易に明かされない。なぜならば、この映画は「安易な告白」を拒んでいるからである。

1


さっさと語られてしまう人間の内面(を表す言葉)など、ただのステレオタイプでしかないのだ、と断じるかのように。

劇中の稽古のシーンは、まさにその「ステレオタイプな演技の拒絶」を表現していて、ほとんど息を呑(の)む感覚がある。観終わると言葉を失うが、私の胸中には百万言が渦巻いていた。

2021年8月20日 日経アートレビュー 作家 古川 日出男 氏




ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


 
こんなブログもやってます(=^・^=)
KINENOTE
Filmarks
FC2

Muragon
seesaa
Livedoor
楽天ブログ
ameba
wordpress
Hatena
にほんブログ村
人気ブログランキング
Twitter
Facebook

ブロトピ:ブログ更新!記事内容更新!はこちらへ!