昨日朝ヨーグルトとみかん。昼はスパゲッティ(弁当、量少なめ)、夜ビーフンにニンニクの芽とベーコンときゅうり。で、今朝63キロ!やっと目標に到達!!先月の今頃は70キロ超。
芸術の価値が何を基準とするかは捉える人により異なる。芸術に価値がないとして、それもまた正である。しかし我々はその価値のない芸術なしで生きてゆくことはもはやありえない。それほど我々の生活に芸術は息づいている。そして芸術は常に時代を反映し時代に反発する。『表現の不自由』というテーマにも意味がある。そして『情の時代』というコンセプトを前面に押し出してきた津田大介氏の狙いもよく理解できる。少女像問題はまたいずれどこかでで取り上げる。
名古屋市美術館で披露されたいくつかの作品はどれも刺激的だった。現代美術としての在り方を見事に押し出している。特に藤井光氏のインスタレーションには複雑な感動があった。1940年代。一億玉砕をうたう大本営がプロパガンダ映像で台湾映画に製作させた軍国主義一色のモノクロ映像が流れる。その脇の壁に現代の台湾人の若者たちが集い、日本の軍国主義の象徴であるような「海行かば」を大合唱するシーンを流す。戦時中の台湾と現代の台湾が日本の軍国主義を境にシンクロするのだ。そして現代の若者は最後の画面から消えて倒れてしまう。この衝撃と感動を文字で示すことはできない。
青木美紅氏の出自「自分が人口受精で生まれた子供」であることを前提に、障害がある女性が出産できないようにされることを拒み、足で自分の子供にミルクを与えながら育てたという人物と、クローン羊を対比させて、生まれるべき者と生まれないようにされる危機をそれぞれファンタジックに作品にしている。これはジェンダーの問題であり、偏見の価値でもある。
その意味でモニカ・メイヤー氏が投げかけたセクシャルハラスメントに対する作品は圧倒的だ。自分が受けたハラスメント被害を文字にしてそれを並べるだけだが、そこに書かれている内容に境界線はない。全ての文字を受け入れ芸術に昇華させている。絵馬で祈りを神に捧げるような世界観。映画『ローマの休日』でも戦争に対する祈りが壁にかけられていた。祈りの文字が作品を生む。そこには無機質な紙が並ぶだけなのに、どうして我々はこれほど感動できるのか。
芸術の価値が何を基準とするかは捉える人により異なる。芸術に価値がないとして、それもまた正である。しかし我々はその価値のない芸術なしで生きてゆくことはもはやありえない。それほど我々の生活に芸術は息づいている。そして芸術は常に時代を反映し時代に反発する。『表現の不自由』というテーマにも意味がある。そして『情の時代』というコンセプトを前面に押し出してきた津田大介氏の狙いもよく理解できる。少女像問題はまたいずれどこかでで取り上げる。
名古屋市美術館で披露されたいくつかの作品はどれも刺激的だった。現代美術としての在り方を見事に押し出している。特に藤井光氏のインスタレーションには複雑な感動があった。1940年代。一億玉砕をうたう大本営がプロパガンダ映像で台湾映画に製作させた軍国主義一色のモノクロ映像が流れる。その脇の壁に現代の台湾人の若者たちが集い、日本の軍国主義の象徴であるような「海行かば」を大合唱するシーンを流す。戦時中の台湾と現代の台湾が日本の軍国主義を境にシンクロするのだ。そして現代の若者は最後の画面から消えて倒れてしまう。この衝撃と感動を文字で示すことはできない。
青木美紅氏の出自「自分が人口受精で生まれた子供」であることを前提に、障害がある女性が出産できないようにされることを拒み、足で自分の子供にミルクを与えながら育てたという人物と、クローン羊を対比させて、生まれるべき者と生まれないようにされる危機をそれぞれファンタジックに作品にしている。これはジェンダーの問題であり、偏見の価値でもある。
その意味でモニカ・メイヤー氏が投げかけたセクシャルハラスメントに対する作品は圧倒的だ。自分が受けたハラスメント被害を文字にしてそれを並べるだけだが、そこに書かれている内容に境界線はない。全ての文字を受け入れ芸術に昇華させている。絵馬で祈りを神に捧げるような世界観。映画『ローマの休日』でも戦争に対する祈りが壁にかけられていた。祈りの文字が作品を生む。そこには無機質な紙が並ぶだけなのに、どうして我々はこれほど感動できるのか。
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